木田元『現象学』
現象学 (岩波新書 青版 C-11)(岩波新書763、岩波書店、1997年)
*2006/04/10現在
フッサール中期
- *近代ヨーロッパの哲学者にとっての「学」
- =神のロゴスないしその顕現ともいうべき世界の理性的秩序の相関者。究極的な根拠を持つ知識の体系。
- ⇒理性的秩序への素朴な信頼に支えられて近代ヨーロッパ文化は形成されてきた。
- 自然的態度
- 超越論的還元
- 自然的態度の一般的定立(=世界の存在についての確信)にストップをかけ、われわれに直接に与えられる意識経験からいかにしてそのような確信が生じてきたか(いかにして世界といった意味が形成されてくるか)を見ようとする。
- 「世界を超えて世界の根源を問う」
- 超越論的意識
- 純粋意識。
- 超越論的還元ののちに「現象学的剰余」としてそこに得られる意識。
- 世界をさえも志向的相関者としてもつもの。
- 現象学的還元(メルロ=ポンティの説明から)
- 世界と関係する運動を中止すること。この運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること。この運動を作用の外に置くこと。
- 常識や自然的態度のもっている諸確信がまさにあらゆる思惟の前提として〈自明なものになっている〉ものを喚起して、それとして出現させること。
- 「負わされた条件づけ」(conditionnement subi)を「意識された条件づけ」(conditionnement conscient)に変えようとすること。
- ⇒存在の意味に関するあらゆる仮定、先入見が還元によって排除され、「世界」や世界の内部で経験されうるすべての存在者の本質的な区別と構造は、それらの存在者が与えられるさまざまな意識の作業にまでさかのぼって問いなおされることになる。
- ⇒超越論的現象学こそ、自己と世界とを意識しているものとしてのわれ自身の確実性、「われ思う」に立ち返って、いっさいの諸科学を基礎づけなおすべき基礎学(Grundwissenschaft)
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- 諸概念についても現象学的反省によって検討しなおし、その一義的な意味を確定しておくべし。
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⇒「現象学」はいっさいの哲学の基礎学たる「第一哲学」に
フッサール後期
- 自然的態度die natürliche Einstellung:いっさいの態度(習慣によって生ずるある特定の定立作用の連関)に先立っていて、それらを可能ならしめるもの
- 自然主義的態度die naturalistische Einstellugn:自然科学のように自然を客体化して観る。還元によって超えるべきもの。
- 生活世界Lebenswelt:自然な日常的経験において生きられる世界
- プラトン以来のヨーロッパ的学問の真の理想:それ以上遡りえない絶対的な洞察・第一原理によってすべての認識を理性的に根拠づけ諸学問の普遍的な統一体を実現すること
- 実践的には・・・学的な自己責任の徹底主義(ラディカリスムス)
- 近代の実証主義が理性の問題を切り捨て逃走⇒人間が理性への信頼を失う=ヨーロッパ的人間が自己への信頼を失う⇒全実存の危機
- 「真の客体的世界」:原理的に知覚不可能。経験されることのない理論的な構築物(生活世界に着せられた「理念の衣」)にすぎない。⇒直接的経験の世界・生活世界の隠蔽(自然の理念化、数学化によるもの)
*世界の現象と経験の地平構造との連関
- 世界:無限に開けた外的および内的地平をともなって経験され、それが相互に錯綜し、多層的に含蓄し基礎づけ合いながら1つの全体的地平をなしている。
- 世界:いっさいの個別的経験に先立って「いつもすでに」与えられており、これが個別的経験のありようを導いてくれる。=「受動的にすでに前もって」(die passive Vorgegebenheit)与えられている。
- ⇒この考え方もひとつの世界定立(根源的臆見)とよぶべきもの⇒客観的な心理の体系としてのいっさいの学(エピステーメ)の基礎に1つの臆見(ドクサ)があり、真理の根底にいわば不真理が存するという驚くべきことを意味する。
- カント:悟性の判断作用の根底に「構想力の隠れた業(クンスト)」を認めていた
- フッサール:「受動性Passivität」の現象に着目し、「発生的現象学die genetische Phänomenologie」の領野を開拓したところに後期思想の大きな特徴がある
- *知覚経験の主題化
- ⇒意識の空間的時間的定位(=身体。しかも延長体レース・エクステンサでありながら同時にある特有の内面性をもった身体主観性Leibsubjektivität)が問題になる
- ⇒身体性の現象学が成立
- 相互主観性Intersubjektivität:生活世界を生きる主観は、身体によって世界のある地点、ある時点に繋縛された個人的主観。そして生活世界はつねに多数の主観による共同主観的構成に基礎づけられている。→身体を介した他者の構成が問題に⇒他我の構成「自己投入Einführung」
- 生活世界の現象学:哲学的反省の主体はもはや、能動的自発的な活動によって意味形成体としての世界を構成するような世界を超え出た超越論的主観性ではありえない。ここで生きられている世界はもはや世界の表象や「世界=意味」ではなく、まさしく世界そのもの。そして哲学的主体が現象学的反省によって見出すのは、この世界への自己自身の受動的な内属。(「前もっての構成」という概念がとらえようとしていたのも、この内属性)
- ⇒自然的態度でのその世界経験は、もはや「世界定位」Weltthesisと呼ぶよりは、「世界内存在In-der-Welt-sein」と呼ぶにふさわしい。
- ⇒経験諸科学の事実認識に依存しつつ、しかもその認識には開示されない事実の意味を解読するのが使命。
フッサールとハイデガー
- フッサール:構成的主観は「超越論的トランスツェンデンタール」⇒世界に属さない(=超越論的現象学、構成現象学)
- ハイデガー:構成的主観が世界内部的インナーヴェルトリッヒな存在者ではないことには同意するが、ではその超越論的なものの座をなすものは、存在者ではないかといったら、そうではない。そこで問題。「世界」がそこで構成されるような存在者の在り方はいかなるものか。
- ⇒現象学の方法的原則を徹底するなら、構成的主観の存在をも、それに固有な自己構成の作業(ハイデガーにしたがえば、これが「実存の遂行」)に即して問うべき。「構成するものの在り方についての問いは避けられるべきではない」
- ⇒『存在と時間』の中心問題(現存在ダーザインの基礎的存在論)。存在そのものの意味を探求する「現象学的存在論die phänomenologische Ontologie」。
- 存在論の実現に絡み合っているように思える二つの思考動機
*現象学的還元の自己還帰性
還元が自然的動機によって促されるなら、その超越論的態度に未反省な生なところが残る→究極的に根拠づけられない→還元の出発状況たる自然的態度の内には、なんら還元の動機はない、という奇妙な事態
- ⇒自らが非反省的なものにいかに深く根をおろしているかを知る
- 時間性Zeitlichkeit
- 「被投的企投」といった統一的な構造連関をもつ現存在の存在を可能にしている。
- 存在理解を規定。
- いかなる哲学的思索も、自身が投げ込まれているその事実的状況から出発するしかない。
サルトルと現象学
意識は対象物に向かって絶えずおのれを超越してゆくことによって存在する、ということになれば、内的生活は徹底的に抹殺される。すべては外的に位置づけられるーーー事物も、真理も、感情も、意味も、そして自我そのものも。
サルトルいわく・・・
- 従来の哲学の間違い:認識とは物を意識のうちにとりこむ消化作用・同化作用だという錯覚的基盤
- フッサール:認識とは己を超えて、己ならぬものへ向かうこと。「・・・に向かっておのれを炸裂させる」こと。
- 「いかなる意識も何ものかについての意識である」という意識の志向性
- 浄化的な反省が復原する第一次的な非反省的意識:端的に対象へ向かう思考作用。「われ」などによって住みつかれていない非人称的なもの。
- 『情緒論素描』:『イデーン』第一巻の趣旨に沿いながら、心理学、現象学、および現象学的心理学の関係を規定。
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- さしあたって心理学のなすべきこと:事実をかき集めるのでなく、現象に問いかける。純粋事実ではなく、意味たる心的出来事に問いかける。
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- *純粋現象学は「前進的progressif」:ア・プリオリな直観によって記述し定着された意識なり現存在なりから出発する。その不可能性にはフッサールも気づいていた。
- *現象学的心理学は「遡行的regressif」:意識なり現存在なりを構成するかぎりでの個々の現象の予備的な記述から出発し、意識や現存在の確定をー理念としてー目指す。
- ⇒哲学的主体も徹頭徹尾世界の内に取り込まれ拘束されている→いっさいの経験的認識に先立って一挙に事象の本質をとらえる本質直観なるものは、ありえない。
メルロ=ポンティと現象学
- 哲学的反省:決して世界から身を引いて意識のうちに引き篭もることではなく、「われわれを世界に結びつけている志向的な糸を出現させるためにこそそれをゆるめる」
- ⇒自己自身の世界への徹底的な内属性を発見
- 「世界をまえにしての〈驚き〉」
- 還元:世界とわれわれとの馴れあいの関係を断ち切り、世界を逆説として見ること
- 現象学:世界や歴史の意味をその生誕の状態において捉えるために、不断に自己の端緒に還ろうとする努力。生きられる世界への還帰。
- 敬虔主義:絶対的真理を素朴に自然のうちに捉えている
- 主知主義:普遍的な構成的主観に心理認識の絶対的能力を付与している
- いずれも直接の経験を水平化し、知覚野を超えた何らかの「世界そのもの」に定位している
- *ゲシュタルト学説が教えたこと
- 客体的世界の手前に、それ自身の規則に従って分節される構文法がある。この構文法によって組織された知覚野の固有の権利を認め、意識を反省以前の知覚的生活においてあるがままの状態に帰し、意識が忘れ去っているそれ自身の歴史へ目覚めさせなければならないということ。
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- 超越論的哲学なるものがあるとすれば、その課題は、現象というものの「生への内属性」と「理性への志向」とを等しく解明し、いかにして現象を通じて客体的世界が構成されるかを見極めることにある。
*自己の身体
- 身体こそが世界へのわれわれの投錨であり、世界内存在の媒質であり、世界へ向かう絶えざる運動の移行点。
- われわれはこの身体によって、いわば世界に「住みつく」→「現象的身体」・身体的実存としてのわれわれ・いっさいの外的知覚には身体経験が介在し、対象の綜合は身体の綜合を通じてなされる。
- ⇒身体の奥底に「世界の現前」を見い出した
- 主体(身体)がそれ自身われを忘れた脱自(エク・スターズ)としてある
- 世界内存在
*「われ思う」から出発し、人間存在を自身にしか近づきえぬ意識と捉えた近代哲学にとって、他者の認識の問題は終始解きえぬ難題(アポリア)→共同して志向作業を営みうるような他我ではありえない(私にとって客体的な物でしかないか、投射された自我でしかないか)
- メルロ=ポンティは問題を身体的実存のレベルに位置づけ、世界への共属性によって解こうとする。
- 身体の知覚する物:他人によっても見られ感じられるのだということをわたしが知らないうちは、真の「物」ではありえない。即自的な「物」は他人の開示のあとにしかあらわれてこない。
- 「間身体性」intercorporeite:他人の身体とわたしの身体とは、同じ一つの間身体性の器官だと考えようとする。他人もまた「互いに居合わせる」compresenceという関係の拡大。
- 他人の経験は、なによりもまず「皮膚感覚的」なもの。それを足場にしてはじめて、「他の思考」としての他人の経験も可能になる。
- 幼児:鏡の中の自分の視覚像をそのまま自己と同一視。自己と他人とを同一視。
- ⇒自分自身の生活を自分だけに限定できず自分の体験と他人の体験とが融け合う→「転嫁」、他の仕切りの欠如→「癒合的社会性」の基礎
- →「体位の受胎」→「物まね」
- →メルロ=ポンティの「間身体性」の位置するのも、経験のこのレベル
- 癒合性の乗り越え→客観的な地盤の整備→「生きられる隔たり」ができる
- が、自他の区別の明確な成人の社会性の底には、この癒合的社会性(幼児期の未開の思考)がとどまりつづける。 : :→相互主観的世界にはこの癒合的関係が寄与しているはず
現象学と歴史性
- フッサールの思索の成熟→「哲学的反省」と「歴史への内属性」が相互補完的契機となる
- メルロ=ポンティ:哲学の徹底した歴史への内属性を主張。上空飛行的思考を拒否。
- メルロ=ポンティの見るところ、マルクス主義はいかなる意味でも独断的決定論的な歴史哲学などではない。むしろそれは、歴史の合理性をいかなる必然性の観念からも切り離そうとする。(中略)「歴史の哲学的意味を明白ならしめる歴史の読み方」と「哲学を歴史として現れさせる現在への還帰」という二つの契機が、マルクス主義の螺旋運動を構成してきた。
- 哲学がわれわれを連れ戻す「超越論的主観性」とは、実はわれわれを少しずつ歴史の全体に結びつけてゆく相互主観性のことにほかならない。
- メルロ=ポンティにとっての現象学:歴史のまっただなかでその歴史の意味を生まれ出づる状態において捉えようとする努力。
何のための現象学か
*ヘーゲル
*マルセル・モース(1872-1950。デュルケーム(1858-1917)の甥)の見方
*レヴィ=ストロース
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- モースの見解を受け継ぎ、これにソーシュールの言語学から学んだ構造分析の手法を適用して精緻な理論にまで仕立て上げた。
- 「構造」:モースのいわゆる交換の様式。
- 社会=「さまざまな構造の構造」:意識されないままに制度化されたシステムの錯綜する全体。
- 当該社会に生きる人々は、その社会構造を概念的に理解している必要はない。(その構造を自明のものとして使いこなしている/構造が彼らを思いのままにしている。)
- 「構造」があくまで分析のための方法的操作概念にすぎないことを強調。
- 基本原則:構造という概念は、経験的実在にではなく、経験的実在にもとづいて構成されたモデルにかかわるものである(「民族学における構造の概念」)
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- 「社会構造」structure sociale:モデルとしてもかなり抽象度の高いもの
- 「社会関係」relations sociales:社会構造を明らかにしてくれるようなモデルを構成するために使われる初次的素材
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- 基本原則:構造という概念は、経験的実在にではなく、経験的実在にもとづいて構成されたモデルにかかわるものである(「民族学における構造の概念」)
- ⇒混同されがちだが明確に区別。
- (→これよくわからない!)
- →すべての理性と非理性、合理的思考と未開の心性の源泉に同じシンボル化の機能を認めることによって果たされる。
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- 「構造」という概念は、人間がいかに脱自的なものであり、他方、社会的なものがいかに人間のうちに根ざしているかを教えることによって、われわれがいかに深く社会的・歴史的世界との回路のうちに入りこんでいるかを理解させてくれるもの。
*トラン・デュク・タオの学位論文『現象学と弁証法的唯物論』(1952年)
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- 現象学とマルクス主義のもっと内面的な連関を追究し、現象学を内部から乗り越えることによって弁証法的唯物論への移行を試みた注目すべき業績。
- 「マルクス主義と現象学」『ルヴュ・アンテルナシォナル』誌(1946年第2号)
- いっそう現象学に近い立場でこの両者を相互補完的なものとして捉えようとする。
- マルクスの史的唯物論:ある全体的経験に依拠。
- 現象学が還帰した「事象そのものへ」というモットーも、全体的経験(意味によって充たされた具体的実存の意識)。
- われわれの世界経験は意味の総体を含む。その一般的な輪郭が経済的諸条件によって浮き立たされるのは、その諸条件がわれわれの体験をこの世界についての経験たらしめるのに必要な境界を設定するというだけのことであって、それが他の経験を決定するということではない。
- 歴史の理解にとっては、生産力の運動と同様に、上部構造の自律性ということも本質的。
- イデオロギー的な構成物が生産様式と相関的なのは、それら構成物がそれに対応する経験から、そのすべての意味を引き出しているからにすぎない。
- 現象学もまた、人間的実存のもつあらゆる意味の価値を正当に認めようとする努力。(ただ、現象学には、実存という観念そのものの現実的分析を可能にする「客観的諸概念」が欠けているし、他方マルクス主義の方も、体験される生活世界の組織的研究をはじめて提唱した現象学から多くのものを学ぶことができるであろうから、両者は相互補完的関係に立ちうるはずだ、というのである。)
- フッサールの考えの曖昧さを指摘