サルトルと現象学
意識は対象物に向かって絶えずおのれを超越してゆくことによって存在する、ということになれば、内的生活は徹底的に抹殺される。すべては外的に位置づけられるーーー事物も、真理も、感情も、意味も、そして自我そのものも。
サルトルいわく・・・
- 従来の哲学の間違い:認識とは物を意識のうちにとりこむ消化作用・同化作用だという錯覚的基盤
- フッサール:認識とは己を超えて、己ならぬものへ向かうこと。「・・・に向かっておのれを炸裂させる」こと。
- 「いかなる意識も何ものかについての意識である」という意識の志向性
- 浄化的な反省が復原する第一次的な非反省的意識:端的に対象へ向かう思考作用。「われ」などによって住みつかれていない非人称的なもの。
- 『情緒論素描』:『イデーン』第一巻の趣旨に沿いながら、心理学、現象学、および現象学的心理学の関係を規定。
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- さしあたって心理学のなすべきこと:事実をかき集めるのでなく、現象に問いかける。純粋事実ではなく、意味たる心的出来事に問いかける。
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- *純粋現象学は「前進的progressif」:ア・プリオリな直観によって記述し定着された意識なり現存在なりから出発する。その不可能性にはフッサールも気づいていた。
- *現象学的心理学は「遡行的regressif」:意識なり現存在なりを構成するかぎりでの個々の現象の予備的な記述から出発し、意識や現存在の確定をー理念としてー目指す。
- ⇒哲学的主体も徹頭徹尾世界の内に取り込まれ拘束されている→いっさいの経験的認識に先立って一挙に事象の本質をとらえる本質直観なるものは、ありえない。