メルロ=ポンティと現象学

  • 哲学的反省:決して世界から身を引いて意識のうちに引き篭もることではなく、「われわれを世界に結びつけている志向的な糸を出現させるためにこそそれをゆるめる」
⇒自己自身の世界への徹底的な内属性を発見
  • 「世界をまえにしての〈驚き〉」
  • 還元:世界とわれわれとの馴れあいの関係を断ち切り、世界を逆説として見ること
  • 現象学:世界や歴史の意味をその生誕の状態において捉えるために、不断に自己の端緒に還ろうとする努力。生きられる世界への還帰。
  • 敬虔主義:絶対的真理を素朴に自然のうちに捉えている
  • 主知主義:普遍的な構成的主観に心理認識の絶対的能力を付与している
    • いずれも直接の経験を水平化し、知覚野を超えた何らかの「世界そのもの」に定位している
ゲシュタルト学説が教えたこと
客体的世界の手前に、それ自身の規則に従って分節される構文法がある。この構文法によって組織された知覚野の固有の権利を認め、意識を反省以前の知覚的生活においてあるがままの状態に帰し、意識が忘れ去っているそれ自身の歴史へ目覚めさせなければならないということ。
    • 超越論的哲学なるものがあるとすれば、その課題は、現象というものの「生への内属性」と「理性への志向」とを等しく解明し、いかにして現象を通じて客体的世界が構成されるかを見極めることにある。

*自己の身体

  • 身体こそが世界へのわれわれの投錨であり、世界内存在の媒質であり、世界へ向かう絶えざる運動の移行点。
  • われわれはこの身体によって、いわば世界に「住みつく」→「現象的身体」・身体的実存としてのわれわれ・いっさいの外的知覚には身体経験が介在し、対象の綜合は身体の綜合を通じてなされる。
⇒身体の奥底に「世界の現前」を見い出した
  • 主体(身体)がそれ自身われを忘れた脱自(エク・スターズ)としてある
  • 世界内存在

*「われ思う」から出発し、人間存在を自身にしか近づきえぬ意識と捉えた近代哲学にとって、他者の認識の問題は終始解きえぬ難題(アポリア)→共同して志向作業を営みうるような他我ではありえない(私にとって客体的な物でしかないか、投射された自我でしかないか)

  • メルロ=ポンティは問題を身体的実存のレベルに位置づけ、世界への共属性によって解こうとする。
    • 身体の知覚する物:他人によっても見られ感じられるのだということをわたしが知らないうちは、真の「物」ではありえない。即自的な「物」は他人の開示のあとにしかあらわれてこない。
  • 「間身体性」intercorporeite:他人の身体とわたしの身体とは、同じ一つの間身体性の器官だと考えようとする。他人もまた「互いに居合わせる」compresenceという関係の拡大。
  • 他人の経験は、なによりもまず「皮膚感覚的」なもの。それを足場にしてはじめて、「他の思考」としての他人の経験も可能になる。
  • 幼児:鏡の中の自分の視覚像をそのまま自己と同一視。自己と他人とを同一視。
⇒自分自身の生活を自分だけに限定できず自分の体験と他人の体験とが融け合う→「転嫁」、他の仕切りの欠如→「癒合的社会性」の基礎
→「体位の受胎」→「物まね」
 →メルロ=ポンティの「間身体性」の位置するのも、経験のこのレベル
  • 癒合性の乗り越え→客観的な地盤の整備→「生きられる隔たり」ができる
    • が、自他の区別の明確な成人の社会性の底には、この癒合的社会性(幼児期の未開の思考)がとどまりつづける。 : :→相互主観的世界にはこの癒合的関係が寄与しているはず