西江雅之『「ことば」の課外授業』

「ことば」の課外授業 : "ハダシの学者"の言語学1週間 洋泉社、2003年4月
★一言感想メモと抜粋

  • 想起:大学で一年間、西江先生の講義を受けた。試験があったかレポートだったか何もなかったのかも思い出せないし、たぶんノートもほとんど取らなかったと思う。流れつづける先生の話は、いつもなんだか物語のようにすこしの遠さがあって、それでも興味を惹かれて毎回出席してしまうという不思議な授業だった。私の感じたすこしの遠さは、おそらく知らない世界の新しい読み方を提示されていて、そのことをうまくつかめなかったからかもしれないと、この本を読んで思った。
  • 対話:私は言葉によりかかりすぎることがある。言葉にこだわりすぎることもある。そんなときは後から、なぜあんなに頑に言葉にこだわったのだろうと恥ずかしくなる。そうでありながら、言葉によらない対話を、飢えているかのように求めることもある。言葉でなにが伝えられようかと強く思うこともある。言葉を介さない対話に敏感になりすぎることもある。口元、指の動き、まぶたのふるえ、視線の動き、頬の緊張、背中のこわばり、息を吸い込むスピードとのどの動き。言葉によりかかりすぎるのとはまるで反対くらいに言葉を置き去りにして、神経を開いて対話することがある。こうして言葉にすると、ずいぶんな極端さに、やっぱり恥ずかしくなる。
    • ことば以外に、人物特徴(身体や性格面)、体の動き(顔の表情の変化や視線の動きを含む)、場の問題(人物がいる周辺環境として)、生理的反応(接触や顔色の変化など)、空間と時間(お互いの距離や当人たちが占めているスペース、そのときの時刻、伝え合いの内容を表現するためにかかる時間など)、人物の社会的背景(社会生活上での地位や立場など)の要素が互いに溶け合って伝え合いを行っている。(pp.122-146)
    • 「人間だけがちぐはぐ」「やや分裂気味」(pp.158-159)(口で言っている意思と、態度や動きや表情から漏れてしまう意思とが矛盾している、といった事例を挙げて)
  • 理解と恐れ:分けること、分けようとしても分けられないことや分けにくいこと、その分けられなさは不安を呼ぶ、ということは、別の人も別の本で同じような意味で触れていた。世界はほんとうは分けられないことに満ちているのに。分けられなさを受け入れられない人が増えて、分けられるものだけを許す人ばかりの世界になると、あるいは分けられることを当たり前で正しいものとするような線引きばかりが受け入れられる世界になってしまうと、ほんとうに分けようのない大きな不明に遭遇したときにきっと簡単にパニックが起きる。分からないものを排除しないこと、分からないものを無理矢理に分かるかたちに入れ込んでしまわないこと。
    • 人々が日常的に行っていることには、自然科学の場合とは違って、そういう文化的な分け方の問題が常に付きまとってくるんです。(p.173)
    • 境界領域にある事物というのは、どの社会でも、気にしはじめると強い意味を持つということ(p.176)
    • タブーは、日常的に身近だからタブーになっているんです。(p.177)(髪は頭から離れたとき(抜けたとき、切り取られたとき)にタブー視される。)
    • 正しい答えは、基準の置き方一つで、何通りも出てきます。ですから本当は、なぜ「牛とクジラはいっしょで、イワシだけが違う」という答えしか今の世の中では認められないのか、いっそこちらを問題にした方がいいんです。わたしなら、「こういう根拠で分けたらこうなる、という例を五つ挙げよ」という問題にします。その方が、よっぽど科学の勉強になるはずですからね。つまり、「分ける」というときには必ず、何らかの基準があるんです。現在の学校は一つの基準しか認めず、それ以外のものは間違いだというレッテルを貼ってしまうのです。(pp.180-181)
  • 外国語教育:国際社会で勝てる人材を育成するには低学年から英会話を導入すればいい!…ということを言うひとには、この本の第7講だけでもいいから読んで考えろと言いたい。低学年からの英会話導入が悪いという意味ではなく。英語で話す、その相手は、人間なのだということ。相手には相手の育った文化があり、私たちはその違いに出会い、その違いを認め、そのうえで理解し合おうとするのだということ。その異なる文化や文脈やものの見方や考え方や世界との付き合い方は、相手の育った言葉の中にあらわれているのだということ。私たちは言葉だけではない多くの要素で自分や相手を感じ取っているのだということ。これらを感受し自分の中で咀嚼しようとする姿勢や向き合いの気持ちを育むことをおろそかにしたら、対話のできる人間は育たないだろう。
    • 話題の中のもう一つ奥の人間を指す人称というのもあるんです。(pp.194-196)
    • その人自身が日常的に、たとえば五千単語以下しか使っていないとしたら、外国語を学習しても、それぐらいの数までしかいかない。外国語だけ急に一万語ということはありえないことなんです。(p.202)
    • たとえば小説を読んでいて、「銀座の女」とか、「浅草の女」、「新宿の女」とあっただけでも、日本文化や日本のことをよく知っている人には、この三つの地名が持つニュアンスの違いは、単にどこかの地域に住んでいる女というのではないことを簡単にイメージさせます。しかし、国際語の場合には、従来ならば言語に分かちがたく付随していた土地の文化はその言語から離れ、その場で使われた言語の方が新たな文化を創り出すという時代に向かっているんです。(p.208)