「特集:ナレッジマネジメントにおけるWeb活用」

『情報の科学と技術』Vol. 62(2012), No.7

★一言感想メモ
★梅本勝博「ナレッジマネジメント:最近の理解と動向」
★犬塚篤「ビッグデータ時代の知識共有」

  • 梅本氏の記事の「5.「知」の2つの側面」に、読みながら頭の中でケチをつけていた。「熟練職人の技能という暗黙知(身体知)」はマニュアル化できないものだ、と。氏は「マニュアルを実行する過程でマニュアルに書かれた言葉から意識が離れて感覚的な記憶と身体的記憶としての暗黙知になる」というように書いているが、そうではなくて、マニュアルにしきれない、言葉として書き切れない部分に「暗黙知(身体知)」があるのだ、と。氏の頭の中では「知」はただしく「知」なのかもしれないけれど、書かれたものはどうも「情報」のレベルに落ちているように思える、と。
  • それから犬塚氏の記事を読んで、これだこれだ、と思った。「知識と情報は異なる」のに、どうも最近聞く話は「情報」のレベルのことを指していながら「知識」だとか「知」だとかと言ってしまっているように思えて、それがとてもいやだったのだと気づかされた。
  • 私の所属する図書館では「知識インフラ」を目玉にあれこれの活動をしていて、それはたしかにいずれは「知識」につながってゆくはずのものにアクセスできるインフラをつくることではあるのだけれども、それでも実際にできることと言ったら情報へのナビゲーションをするところまででしかない。「知識」は人間が頭の中で組み合わせたり比較したり統合したり切り分けたりする、その営みの中にこそ存在するはずで、それは言葉として受け渡すことのできるものとなったときにはすでに情報のレベルに落ちてしまい、その情報を受け取った人間がまた再び「知識」のレベルに上げる営みを行う、その繰り返しであるはずなのだ。
  • だから、本来「ナレッジ」と「マネジメント」という言葉はなじまない、と思う。だから、「ナレッジマネジメント」という言葉を、私はどうしても胡散臭く感じてしまう。
  • 知識と知は、いずれも個人あるいは複数の人間たちのあいだのコミュニケーションなどを通じて変容しつづけるもので、その営みが言葉やデータのかたちで固定されたら、その時点で情報になる。この意味で、知はマネジメントする・できるものではないと思う。
  • では、図書館としてできること、つくれるツール、提供できる「基盤」とは、と考えると、あくまでも情報へのナビゲーションをすること、絞り込みができる方法を提供すること、その探し方のコツのようなものを提示すること、あるいはそうしたなんらかの方法によって得られる情報群を提示すること、なのではないかと思う。犬塚氏の書くように、誰でも情報にアクセスできる環境を整備しさえすれば知識社会が実現されるのであれば「今日のWeb環境は,人々の知識志向性をとっくに高めたはず」(p.302)なのだ。
  • 実際には、そうはなっていない。それは、なにが自分にとって必要な情報なのか、その必要な情報を探すためにはどのようにすればいいのか、どのような視点から、どのような言葉を、どのようなツールを用いて探せばいいのか、見つけた情報をどのようによりわけ、自分にとって必要な情報であることにどのようにして気づけるのか、ということが体得されていないからだと思う。犬塚氏は似たようなことを「知識抽出能力」(p.306)と呼び、「原石からダイヤモンドを抽出する力は,日常的な学習(訓練)からしかやってこない」(p.306)と書く。
  • 検索ツールがいかに発達しても、そこで得た情報を「知識」にするのは人間なのだということを置き去りにしてはだめなのだと思う。情報を「知識」にすることのできる人間に、子どもも大人も育てる必要があるのだということを、真剣に考えなかったら、養老さんの言う「底力」はいつまでたってもつかないままだろうと思う。