養老孟司『いちばん大事なこと』

いちばん大事なこと : 養老教授の環境論 集英社、2003年11月
★一言感想メモと抜粋・要約

  • 著者の本を読むのはこれが初めてだったけれど、読んでよかったなと思っている。
  • 地質学的にこれだけ平穏な時代に、生物が絶滅するような事態はこれまでなかったはずである。(p.81)
  • 「手入れ」について書いてあったのがよかった。私の疑問の発端は屋久島だった。屋久島を歩いたときに案内してくれた人が、自然状態を保ち人間は可能なかぎりなるべく山に入らないことを是とする人で、著者の言い方にならえばどちらかというと「原理主義者」的な人だった。そのときに、ほんとうにそうだろうかと少し違和感を覚えたのだったけれど、その違和感が、著者の「手入れ」のメリットへの言及によって、落ち着きどころを得たような感じがしている。そのメリットは、人間が自然との付き合ううえで、とくに自然と「ともに」生きることを考えるうえでの重要なポイントとして、自然のシステムを維持するためにどのようにするのがよいかという事例とともに描かれていて、屋久島を案内してくれた人にも読んでほしいなと思った。
    • 「魚つき林」といって、漁師さんが山に木を植えている。日本の川の水がきれいなのは流域の森林のおかげだと述べたが、木を植えて川がきれいになると、その川が注ぐ海で植物プランクトンが増える。すると、魚や牡蠣がよく育つのである。日本は国土が狭いだけに、そういうフィードバックが速い。だから、漁師さんの目ですら山に向く。日本人が「手入れ」をまめに行ってきたのは、自然が手入れにきちんと応えてくれるからでもあろう。(p.88)
    • 日本は資源の乏しい貧乏国だといわれてきたが、自然の生産量を見れば、その印象は変わる。植物の生産力が高いだけでなく、海に囲まれているから海産物が豊富にとれる。江戸時代は工業生産力が低かったが、こんなふうに自然が豊かだったから、なんとか食べてこられたのである。(p.89)
    • 雑木林や丈夫な自然の代表だと書いたが、草地に木が生えはじめたとき、成長するにまかせていると、関東以西では最後には照葉樹林になってしまう。照葉樹は日差しをさえぎるので、下の地面には下草が生えなくなる。下草と共存するようなさまざまな生物も生育できない。里山では、木の生長に合わせて手を入れることで、林が本来のそこでの自然林である照葉樹林になってしまうことを防いでいる。その結果、木々は十五年から二十年というサイクルで生長し、交代していく。(p.90)
    • 里山の雑木林が教えてくれるのは、自然は手を入れたほうが、一面では豊かになるということである。(p.91)
    • 天道と人道…自然の道と人間の道…放ったままの天地自然と、自然という相手を認めて人間が手を入れる、予測不能で刻々と姿を変える複雑なシステムである自然と毎日付き合うことで手の加え方を考え、努力・辛抱・根性によってそれを続ける(pp.97-101の要約)
    • 人間と関係をもってしまった自然にはきちんと手を入れ、自然のシステムを守ってやらなければならない。「手入れ」と「コントロール」は違う。「手入れ」は相手を認め、相手のルールをこちらが理解しようとするところからはじまる。これに対して「コントロール」は、相手をこちらの脳の中に取り込んでしまう。対象を自分の脳で理解できる範囲内のものとしてとらえ、脳のルールで相手を完全に動かせると考える。しかし自然を相手にするときには、そんなことができるはずがない。(p.102)
    • コントロールが具体的に「手入れ」と大きく違うところは、容易にマニュアル化されるということである。マニュアルとは、特定の目的を果たすために必要な手続きを、きちんと定めたものである。だから、相手が変化しない、あるいは単純なときにはうまくいく。しかも、手続きがきちんと保証されていると、人間は安心する傾向がある。(中略)手続きをきちんと果たしていると、相手の状態が変わり、目的が変わったときでも、そのことに気づかなくなってしまう。科学も同じである。(p.106)
    • システムは複雑なものだが、それを破壊するのはきわめて簡単なのである。他方、システムをつくり上げるのは、現在までの人間の能力では、ほとんど不可能である。だからこそ、安易に自然のシステムを破壊してはいけないのである。(p.112)
  • 遺伝子組み換え食品について、なにが悪いのか、なにが良くなさそうなのか、私はよくわかっていなかったけれど、その答えらしきものを得た、と思う。その答えとはつまり、なにが悪いのか、なにが良くなさそうなのかが現時点ではわからないということ、私たちの体や生態系や環境というこの世界のシステムがどのような影響を受けるのかまったく予測できないにも関わらず、ある一部分の「効果」だけを取り上げて、対症療法的に遺伝子を利用していること、そのことが問題なのだ、というふうに理解した。
    • 生物や細胞は遺伝子に書き込まれた情報を読みとり、動いているシステムである。だから、遺伝子だけがわかっても、読みとりシステムである細胞はわからない。(中略)遺伝子で理解できる範囲のことは、遺伝子を調べれば理解できる。(p.122)遺伝子の情報は、生物というシステムの理解には不可欠である。しかし、それだけでシステムがわかるというものではない。(p.124)生物というシステムのなかでは、一つの遺伝子がさまざまな機能を果たしている。ある遺伝子を取り除いたときにシステムがどう変化するのか、取り除く前と後とでどちらのシステムがいいのかは、簡単にはわからない。そこには、システムを取り巻く環境条件も入ってくるから、よけいに話がむずかしい。(p.128)われわれは、生物というシステムを、ほとんど知らないに等しい。それなのに、わかったような顔をしたがる。そこが問題であろう。(p.129)
    • ロボットをつくるには、生物のシステムを理解し、それをまねたシステムをつくり上げればいい。ところがこれは、これまでの知識を動員すればなんとかなる、という仕事ではない。ロボット開発は、自然のシステムのみごとさを知るだけでなく、これまでの科学が置き去りにしてきた「システムの理解」という問題と向き合う研究なのである。(p.131)
    • ロボットと人間の、いちばん根本的な違いは、ロボットはスイッチを切ったら動かなくなるが、人間のスイッチは切れないということである。スイッチの切れないような機械、つまり故障が起こったら自分で修理できるような機械を、われわれはいつになったらつくり出せるだろうか。そう考えると、システム研究の行く先は遠いことがよくわかる。なぜなら、細胞は分裂して新しいものに置き換わることで、自己再生をいとも簡単にやってのけるのだから。(pp.131-132)
    • 生物の個体がシステムであるのと同時に、たくさんの個体からなる社会もシステムである。(p.132)
    • 「自然史とは、大学の教壇で教える科目ではない。それは、人間の生き方 a way of life です。」メリアム・ロスチャイルド(父親のチャールズ・ロスチャイルドは銀行か。イギリスの自然保護運動創始者とでもいうべき人物で、ノミの研究をはじめとして、さまざまな活動をした。自然保護のために、有志が土地を買い上げる、ワイルドライフ・トラストを創始したのは、このチャールズである。またメリアムの叔父は有名なチョウの収集家で、個人で博物館をつくったが、現在ではチョウの標本は、ロンドンの自然史博物館に収められている。)(p.143)
    • システムは、簡単に理解しようとするには、複雑すぎる。(p.179)
  • 少子化とはつまり、子どもは苦手だということである。都会の人なら、それはあまりにも当然であろう。子どもは自然であって、都会人は自然とのつきあいが下手な人たちだからである。(p.159)都会人は「ああすれば、こうなる」と考える人たちだと述べた。ところが子どもとは、しばしば「どうしていいか、わからない」ものなのである。(pp.160-161)
  • CABI:英連邦諸国の農政部局と農学系研究所群を前身とする国際組織。生命科学の知識を応用して農業問題と環境問題の解決を図ることを目的としている。イギリスの他にケニア、マレーシア、パキスタン、スイス、アメリカにセンターがあり、農産物の病気や生物農薬などについての研究、データ整備、普及啓発と、さまざまなデータや研究成果の出版を活動の二つの柱としている。その活動の一つとして、菌類のデータベースを構築、運営している。ロンドンの郊外に研究所がある。(pp.171-172)
  • これからの学問、これからの私たちの生き方、これからの世界の理解と世界への向き合い方、といったことを考えさせられた。私は「オリジナルな論文」を集め、保存すること、を考えていたけれど、その「論文」ではない部分で営まれるべきことがどんどん縮小していて、その縮んでいる部分が本来の科学・学問にとって重要な「世界の把握」であるなら、本来目を向けるべき活動が無視されているなら…。論文至上主義、みたいなものは、学問の世界での評価の仕方や予算の振り分けの基準も変えていかなかったらたぶん変わらないのだろうとは思うけれど、ほんとうは、子どものころから、あるいは高校でも大学でも、とにかく自分で考えることをきたえる場で、「わたしたちが生きるうえでほんとうにだいじなことはなんなのか?」ということを、考え考えしていくことが必要なのだろうなと思う。そのような考え方の筋力がきたえられていれば、おそらくオカネに左右されない社会になれる、そのような考え方が当たり前になればきっと論文至上主義みたいなところから離れられる、と私は思う・思いたい。その点、イギリスは大人の国、という言い方をした友人は、ただしいと思う。
    • そこで思ったことは、標本やデータという基本的な情報に関する価値観が、おそらく日本人とは根本的に違うらしいということである。(p.172)
    • データや標本という情報を集める作業は、自然とはどういうものであるかを把握する作業だ。われわれにできるのは、情報を少しずつ集積し、実体と関係づけながら読み解いていくことである。そのなかで、自然がしだいに把握できていく。それが、自然というシステムを理解することであり、環境問題に取り組むときの基礎になるのである。(p.173)
    • 自然と対立するものが人工、つまり意識なのだから、自然を知るために人工物を使うというのは、根本から話がわかっていない。(p.174)
    • 環境問題のむずかしさは、それがシステムの問題だというところにある。システムというのは、たくさんの要素が集まって、全体として安定したふるまいをするような存在である。(中略)細胞は生物の基礎となるシステムである。(p.178)
    • 現代の学者は、システムの理解が根本的に苦手である。その理由は、現代の科学という「システム」にある。(中略)いまでは偉い先生とは、立派な論文をたくさん書いた人なのである。それなら「学界」がどうなるか、(中略)論文が書きやすい分野、論文になる分野に人気が集まる。生きるため、偉くなるためには、論文を書かなければならないのである。それがシステムの理解を妨害する。(p.179)システムを情報化すること、つまり生きものについて論文を書くことが、一九世紀以来の医学・生物学の仕事だったのである。生きものという複雑怪奇なシステム、それの一面をとらえて、論文という形に「情報化」する。それがここ百五十年間、科学がもっぱら従事してきた仕事だった。その作業の向きを逆転して、情報からシステムを構築する作業は、すっかりお留守だったのである。(p.181)
    • 複雑なシステムを単純化して説明する。そのためには部分的に説明するしかない。だから専門分野がイヤというほど別れた。論文は死ぬほど出る。でも全体がどうなっているか、だれにもわからなくなったのである。(p.182)
    • 「どうしたらいいか」という質問は、シミュレーションが成り立つことを前提にしている。自然はカオスで、シミュレーションは成り立たない。それならまったくわからないかというなら、わかることもある。問題なのは、即座に答えが出ることを求めて「どうすればいいのか」と質問する人の考え方。どうしたらいいかわからないことが、山のようにあることを認めたうえで「辛抱強く、努力を続ける根性」が必要なのである。これは自然と付き合っていれば身につく。(p.183の要約)
    • 入力を、それ以前からの知識経験と混ぜ合わせて、「自分の脳」という計算機が「出力」する。それが「どうする」である。出力は、いかに小さいといっても、かならず外界を変化させる。その出力こそが、自分の責任であり、どのような出力をするかを決定する存在を個人という。(pp.183-184の要約)
    • 1.情報の基盤には、情報源である「実体」がある。医療でいうなら、患者さん自身は実体で、検査の結果は情報である。患者さんは検査の結果という情報としてとらえられた、つまり情報化されたのである。2.その情報を整理して、意味のある情報と、意味のない情報をよりわける。これは広い意味での情報処理である。3.情報処理に基づいて、どういう治療をするか、決定する。脳でいうなら「脳からの出力」である。それで治療がうまくいかなければ、第一段階からまた繰り返す。うまくいったなら、患者さんはもう病院に来なくなるから、問題は解決である。環境問題では、人々それぞれが医師である。医療では、検査をするのは技師である。同じようにいうなら、環境では、技師に相当するのは、各分野の専門家である。それが十分かというなら、きわめて不十分であるというべきであろう。だから実体がどうなっているか、まだまださまざまな検査をしなくてはならない。それを専門家だけにまかせておくことはできない。なぜなら、環境問題はすべての人の生き方に関係しているからである。(pp.184-185)
    • 一面だけをとらえてシステムが「わかった」と思うのも誤りなら、「一面しかわからないからダメ」というものでもない。われわれはそもそもシステムの限られた面しかとらえることができないのだから、たえず「実体の情報化」に戻る必要がある。五感のすべてを使って、実体に自分で触れるのでなければ、自分なりの情報化はできない。(pp.186-187の要約)
    • 「参勤交代」の提案:一年の4分の1を田舎で暮らす(働く)ことを国民全員に義務づける。(中略)長い目で見るなら、日本という国に底力がつくはずで、全員が得をするはず。(pp.194-195の要約)
    • 学ぶとは、自分が変わることである。(中略)自分で目のうろこを落とせ。(p.196)
    • それがどのような世界であれ、世界を創り出しているのは、結局はわれわれ自身なのである。(p.196)