MICHIRU《WORLD'S END VILLAGE》

宇宙のように深く高く遠い空間のどこかの一点から地面のある場所に急接近し、うたい舞い祈りあるいは呪い捧げる何者かの集う場所へクローズアップ、手を打ち裾をひるがえしシャラシャラと擦れる金属は細く光る、この装身具を身にまとった女たちは入れ替わり立ち替わり恐ろしいほどのスピードで背をくねらせくるくる回り身をかがめ髪が身体に巻き付くのを舞のしぐさのひとつとして踊りつづける……。
…言葉にしようとすれば長々しくけっして描ききることなどできないと思うこうした風景が、MICHIRU の 《WORLD'S END VILLAGE》の第一曲目《世界の果ての村/はじまりの祭礼》を耳にしたときに浮かんできて動きを止めることはなかった。そしてこのタイトルを目にしたのは、この風景が音とともにしずまったあとのことだった。声を打楽器のように音に沿わせながらこんなにもメロディックに表現することができるのかという気づきで「音を聴く」ことに戻ったのは二回目に聴いたときだった。
このアルバムのどの曲でも、舞台の転換か、あるいは映画の中で世界が移りゆくようにして、MICHIRU の音は世界の彩りを時の流れの中に鮮やかに閉じこめ、聴く私の耳に解き放ち引き寄せる。ここには、現実に近しく、けれどもどこかにあるのだろうとしか言えない「描かれた」風景がある。それが何かと考えてみても、私には「MICHIRU のイメージ」という言葉しか浮かんでこない。「MICHIRU とはなにか」を語る言葉を持ち合わせていないのにもかかわらず、「それが、MICHIRU の音だ」という思いに突き上げられる。敢えて言葉にしようとするなら、踊りがありヒトがいて色がある、動きをやめることなくたとえ静寂に聞こえる時間の中にも波が潜み世界の呼吸がある、そういう音だ、というようなことになるのだろうけれども。
誰もが MICHIRU の音を好むだろうとは、私は思わない。ただし、その代わりに、MICHIRU の音が金縛りのように心の中に入り込み出て行かないどころか身の内から神経にまで行き渡り一体化して血液のように循環し、その身体を、感情とも思いとも違う「感」という文字を与えることしかできないような何かの波を、その身の深奥から引き出されて止まらなくなり、見つめるべきなにかを、自分だけのなにかをつかみたい衝動に駆られる人がいることを、確信する。
歌い手の声の質だとかそれを支える音の組み合わせについてだとか組み込まれた言葉の意味を解釈してこの音の紡ぐ世界を音の代わりに伝えるだとか、といったことを批評家か評論家のように書き出す技術は、私にはない。私にできるのはただ、MICHIRU の音が私に見せた世界があったという事実を、自分なりに言葉にしてみようとすることだけだから、だから人に「聴くといい」とすすめることもしない。ただ、強い波を含む音に出会ったこと、それが MICHIRU の 《WORLD'S END VILLAGE》だったと、記しておきたい。