『正しい統計データ』を使ってウソをつく方法(05/12/11)

もとい、つかれたウソに騙されないための注意点。
参照【「いんちき」心理学研究所】
http://psychology.jugem.jp/?eid=48

*統計データを見るときに気をつけるべきこと。

  1. 欲しい結果を得るために、データを取るときの質問設定に仕掛けがある可能性。
    • データを取った側の思想的背景への注意。
    • データを取った当時の世論への注意。(←世論を知りたいためにデータを参照する場合は判断が非常に難しいということになる。複数のデータを参照する必要あり。)
    • データをまとめて言葉で表現されたとき、すり替えが行われていないか。(たとえば賛成・反対をどこで区切って括っているのか、その境界線に注意。)
  2. データを年代推移で見るとき、そのデータを取る基準が変化している可能性。
    • そのカテゴリーに入る項目が増えたり減ったりした可能性や、判断基準が歴史的・思想的に変化した可能性を考慮。(たとえば「強盗」に含む条件が法的に変化した、など。)
  3. グラフ化したときの印象に仕掛けがある可能性。
    • データの切り取り方(年代の区切り。特異な現象に見せるテク)
    • グラフの目盛り数(変化が大きいと感じられる)

*まとめ

統計データを見るときにはどこかにウソがないか、どこかでウソが可能なのではないかと、常に疑ってかかるべし。

思考錯誤04-10-03より(06/01/13)

盛山和夫『社会調査法入門』有斐閣

「社会調査とは解釈である」

社会調査の暴力性

全文引用したいが、その中でも大切だと思うところを。

情報処理(認識)の対象となる範囲を広げるーーたとえば何千、何万というオーダーの人々のふるまいや意識を対象範囲と化すーー代わりに、個々のふるまいや意識については単純化をほどこす。
そのようにして、限られた情報処理能力のリソースを、認識対象範囲の拡張のほうにあてる方法が、社会調査法というものだ、と私はおおよそのところ考える。
それに伴う「単純化」は、ある種の(暴)力の行使である、という批判に対して、私は同意する。
しかし、日常生活のなかでも、私たちはそれと基本的に同型の(暴)力を行使しあって生きているのだ。

(暴)力を伴う複雑性の縮減なくして、私たちは社会的存在たりえない。
社会調査の場合(だけではないが)、問題は、そこに(暴)力の行使が伴うことではなく、調査者と被調査者のあいだに(暴)力の非対称性が生じ(う)ることだ。

暴力の非対称的な行使とは、たとえばこうしたかたちで顕在化する。
それに対する畏れをもたないすべての人々を、私は信じない。
しかしまた、研究者という道を選びとったかぎりは、この畏れのもとに立ちすくむこともまた許されないのではないか、と私は思う。
研究において応答責任をはたしていくこと。
このような書簡をここに紹介すること自体が、またある種の暴力の行使にほかならないだろうが、それでもなお応答していくこと。
なぜ私は研究者でありつづけようとするのか、と自問しつつも、今の私にはとりあえずそうするしかない。