"あいだ" に立つ

返信みたいなもの。
年の暮れに、とある場所にこんなことを書いた。

翻訳者の仕事とは、ふたつの言語を架橋することではない。翻訳と和訳のあいだを埋めるのが翻訳者なのだ。英語を日本語にするなら初学者でもたやすいことだ。そうではなく、英語の文化を背負って英語で読む人が感じることを、近似的にでもそのまま/同様に日本語で感じることができるよう文章を組むのが翻訳者の使命である。

わたしたちがするべきことは、いっぱいあって、それは翻訳と、とても似ているんじゃないかと思った。いろいろな文化を背負って生きている人がいる。わたしたちも、わたしたちの "文化" を背負って生きている。

たがいに違う文化を背負っていて、たがいに違うルールをルールとしていて、でもわたしたちは、それでも分かり合えると思っている。分かり合おうとするならば、それはきっとできる、と。


"あいだ" に立とうとする人は、その違いのあいだを、何度も何度も行き来して、両方の "文化" を掬って、人の目を、気持ちを、意思を、カタチにしていく。それはとても時間がかかることだけど、信仰にも似たなにか強い気持ちが、わたしを諦めさせない。

これを書いたときに想定していた "あいだ" というのは、わたしたちが研究の「対象」とするもの、その複数の「対象」の "あいだ" のことだった。けれども、その "あいだ" を行き来してわたしたちがつかんだものを文字にする時、その提出先が「わたしたち」ではないならば、わたしたちは今度は、「わたしたち」と「世の人々」との "あいだ" に立たなければならない。

それはつまり「わたしたち」から距離を取り、相対化し、それによって「世の人々」と「わたしたち」の関係や差を見るということ。伝えたいことがなるべく曲がらずに伝わるように、双方がそれぞれで共有している感覚を知り、双方の文脈を考えに入れて言葉を探すということ。研究者たちの「前提」が「ただの理屈」で終わらないためには、こうして「わたしたち」の文化と「世の人々」の文化の "あいだ" に立つことが、つねに必要なのだと思う。

「わたし」の外に立つことはとても難しいことだけれど、わたしも、諦めたくない。