デジタルデータの橋渡し

いま重要だなと感じている3つの項目について書き送った散漫なメモ+α。ですます調のほうがあとの自分にとって伝わりやすい気がするので、今回はですます調で。3つの項目は以下。

  1. エスノグラフィックなアプローチ、人類学的アプローチ
  2. 長期保存
  3. 情報倫理


note: 話の前提になっているのは冬学期前半の講義と資料とディスカッション。それぞれ関連メモ等を参照。


1. エスノグラフィックなアプローチ、人類学的アプローチ
未来の利用者にとって必要になる情報とは何か、というのは、橋渡しする対象となる情報を収集する、という最初の段階で考えるべきことです。ですが、デジタルデータをキュレーションする過程でぶつかる問題は、利用者と関係するものが多いです。その問題を明らかにする方法として、エスノグラフィックなアプローチ、人類学的アプローチを重視している、というのが、ひとつ、重要な点だと思います。
講義が始まる前は、プログラミングなど技術的なレッスンなどもあるのかなと想像していましたが、いまのところはそうではなく、それ以前の、問題解決に対する姿勢の部分に対峙しています。
エスノグラフィックなアプローチも人類学的アプローチも、新しいものではありません。以下の論文は、大学図書館での約10年前のプロジェクトの成果ですが、具体的にどう活かされるかがわかりやすかったです。
Nancy Fried Foster, Susan Gibbons, 2007. Studying Students: The Undergraduate Research Project at the University of Rochester, Chicago: American Library Association. http://www.ala.org/acrl/sites/ala.org.acrl/files/content/publications/booksanddigitalresources/digital/Foster-Gibbons_cmpd.pdf
エスノグラフィックなアプローチというのは、ざっくり言えば、ある文化の中に生きているひとがあるものごとをどのように認識し理解しているかを明らかにすることを目指して、インタビューや、コミュニティの中に入っていく参与観察、アンケートの集計など、さまざまな方法を用いて研究する方法、だと思います。未知の地域や未知の文化世界に入り込んでいく、というような「大きな文化」が対象なのではなく、大学図書館なら大学図書館の利用者のふるまいや習慣や思考方法や認識(小さな文化)を理解して、大学図書館が提供すべきサービスの改善を図る、という感じです。

これを踏まえて、講義では小さな文化(micro culture)について考える、ということをしています。例えば、

    • デジタルアートをアーカイブする、というときに、どのような点を残すことが「デジタルアートを残した」ことになるのか?
    • 出来事Aについて記述する未来の歴史学者のためにどのような情報を残す必要があるか?
    • 絵画のデジタル化、というときに、どのような色、どのような精細さでデジタル化すれば、それを見るひとは「本物と同じ」と思うのか?

といったことは、利用者の見方、利用者の認識を知らなければ明らかにできません。
これが明らかにならないことには、例えばいまあるデジタル化の技術のうち、自分が担当することになったデジタル化において、どの機械を選ぶのがもっとも適切なのか?ということを考えることができません。ただし、利用者の認識を知るためには、実験的にサンプルを作ってみる必要がある場合もあります。つまりスモールスタートが必要なこともあります。
考えてみれば、まったく当たり前のことではあります。でも、図書館(サービス提供者)側が、利用するひとへのリサーチから始めて、その後のプロジェクトを考える、という取り組み方は、いま、必ずしもできていない、と思いますし、必要なことだな、と思います。
「利用者」をどう絞るのか問題は、いつでもつきまとうことですが、始めてみて見えることって、あると思うのです。「まずやってみる」という取り組み方は、いろいろな枠組みのなかで許されたり許されなかったりします。ですが、泥臭くて地道な作業で、数字としては出しにくい結果になるとしても、取り組んでみて見えること、取り組んでみなければわからないことって、あります。よその国の類似機関が出した結果だけをもらい受けてその手法を適用するだけではひずみが生まれるし、そのひずみは不幸を生むなぁと思います。だから「枠」を逃れてでも手をつけていく。枠を逃れて取り組みを広げるというのは、それができるかどうかは、ヒトに依るところも大きいですが、それができる人の隣にいられて泥臭い地道な作業をさせてもらえていたときのことを思い出して、ああいう取り組み方を広げられたらいいなぁかっこいいなぁと夢想します。
あと、書き送ったあとに「実空間だとまだやりやすいとしても、オンラインでどうするのか」という問いをもらいましたが、オンラインの利用者も人間なので、認識や理解を追究するという点で、それほど機械機械して考えなくてもいいのではないかという気がしました。「気がしました」レベルの話なので根拠がなくてまったく弱いですけど。。。


2. 長期保存
長期保存もとても重視されていますし、重要なことだなと思います。何を残すか、ということを議論しない組織もありますが、残すべき重要な情報とは何か、重要なパラメータとは何か、という点について考えるのって大事だな、と感じています。
これは、もう少し広げると、例えば大災害が起きたときにどの資料・情報・データから守るか、という、組織で残すべき情報の優先順位にも関係するものです。そしてその優先順位は、組織のなかで考えるべきものです。ほんとは図書館でもコレクション構築の指針として、収集すべき重要資料・情報はコレ、というのを持っているのが望ましい、けれど、実情、ないに等しい、というのがほとんどですよね。
そして保存メディアが永遠ではないことが明らかであるときに重要なのは、ほんとうに単純なことですが、

    • 複数箇所で複製を保持すること
    • オリジナルはオリジナルで保存すること
    • 提供するのは複製したものだけど、複製したものが損なわれたときにオリジナルからまた複製する必要があること

を、常に念頭に置くこと、なのかな、というのがいまのところの私の理解です。講義では、コピーには必ず欠損がある、と口を酸っぱくして言われています。デジタルデータの複製にも必ず誤りが生じる、その誤りコピーは見破れる場合と見破れない場合がある、修正できるものとできないものがある、それだからデータは壊れるものと考えよ、と。怨念が込められている気がするくらい繰り返し言われます。それくらい複製データは信用できなくて、そして、でも、だからこそ、複製しておくこととオリジナルをオリジナルとして保存しておくことが重要、と。サービスのために提供するものと、長期保存しておくものとは、分けるべし、と。そうくちにする先生がまたさみしげに笑ったりするので、それがさらに…毎回の講義でみしみし刻まれている感じです。


3. 情報倫理
情報倫理の面も、重要な問題だと感じています。これはステークホルダーがとても多い難しい問題ですが…。

    • お金の回り方、情報の回り方の全体を知ること。
    • そのサービスで、誰がbenefitを得ているのか考えること。
    • そのサービスのために、誰が何を提供しているのかを考えること。

研究者、図書館、出版社、といったプレイヤーと、個人情報や利用の履歴データ、ピアレビュー、その依頼、データベースの維持管理、といった関係のある要素や仕事をそれぞれリストアップしてみたときに、誰が何を提供して、誰が何を得ているのか、その対価は妥当に支払われているのか、支払われていない場合はそれはフェアと言えるのか、学術のしくみとして、それは望ましいあり方と言えるのか、言えないならば、何を変えるべきなのか、考えないとだなぁと思います。ウェブサービスも、シリアルズクライシスも、APCも、オープンアクセスも、情報が回っていくなかで学術が先細りしたり腐敗したりしていかないために何が必要なのか、どういうしくみが必要なのか。誰かにとって無料のサービスは、誰が何に出資することで提供されているのか。アクセスする側もアクセスを提供する側も図書館もアカデミアも、自分の役割となっている部分だけではなくて、その全体のしくみを知り、それが望ましい姿なのかどうかを、未来も含めて考える必要がある。ということを、情報倫理の講義とディスカッションを通じて、強く感じさせられています。
で、話し合ったり考えたりしたあとに、「考えました」で終わるのではダメで、「望ましい姿」に向かうために自分や自分の組織がすべきことはなにか、いますぐ何ができるか、時間をかけたら何ができるかを考える、必要なら協力しあって何かを変える、誰かを動かす、対決する、というのも必要なんですよね。ここで明確には書けないけれど「手を組んで戦ったらどうなの?」という意味のことを言われて、ほんとにズンときた重さを、忘れちゃいけないなぁと思っています。


★……、で?
こうして考えてみると、私が「いま持ち帰りたい」と思うのは、

    • 自分たちの状況をもっとよく知る
    • 必要なことは何か話し合い、改善のための方策を考える

ということを、自分の組織のなかでも組織を超えてもしたいし、すべきだ、という、とても基本的なことなのだなぁと思います。
決められた枠組みのなかで動くしかない事実と、そう思い込んでいるところ、両方があると思います。それをどう超えられるのかはわかりませんが、枠を取り去って、あるいは取り去らなくても超えることができたらな、と思います。
…と書いて、これって言葉にすると前にも考えたことだなと気づきました。捨象している部分があるので、テーマは違っていたりしますし、私は言葉がざくっとしているので、言葉にすると同じようになってしまうということかもしれませんし、それはそれで問題なわけですが。ただ、「なんでできないのかな、できる人が集まっているはずなのに」と思う部分は変わっていないみたいです。私にはまだ自分の組織がよく見えていないのかな。
あと個人的に、枠に見えるものを超えたいと思う傾向があるみたいだな、とも思います。それは、枠を超えることでよいことが生まれる気がする、と思うことが多いから、でもあるようです。で、それはなんか、いやがられることにつながりやすいのでは、という気もしますが。